QOLの話

最近Twitterが辛い。特に夕方は地獄だ。様々な人が料理の画像を投稿している。私はインスタを知らないので、偏見だけでものを語るが、その辺の写真はインスタに投稿するのが適切なのではないか?

私がTwitterに期待しているのは、ツイ廃どもの醸し出す世紀末な雰囲気であって、おしゃれなご飯の写真ではない。しかし、実際にはみんな質の良い物を食べている。ライトなTwitterユーザーはともかく、ずっとTwitterにいる奴らでさえ、なぜか飯だけはきちんと作り美味そうだ。身勝手な話だが、私は君たちツイ廃がきちんと料理をしているところを見たくない。ツイ廃は、昼夜逆転の生活を送り、昼過ぎに絶起の報告のツイートをし、食事はスーパーの惣菜や、カップ麺で済ませるべき、そう思っている。

Twitterを見ていると自分の食生活が悔しくなる。作るものは一皿か、多くても2皿。盛り付けなどはめんどくさい。皿洗いを厭ってそのまま鍋から食べていることなどもよくある。レシピは、見ない。何も見ず、己の勘だけを頼りに食材を調理する。当然、見栄えは悪いし、料理名なども存在しないので、投稿する意味がない。似たような物しか作らないので、目新しさもない。これで、異国の料理を平然と作っている人間たちに混ざることなど不可能だ。

自分の食べ方にも問題がある。彼らはおしゃれなランチョンマットを敷き、おしゃれな木製の食器とカトラリーを使い、おしゃれな机で食っている。どうぞ見てくださいと言わんばかりだ。一方私はどうだ。ランチョンマットなどは使わず、食器は百均(たまに鍋から)、安物の箸は経年劣化により反っている。食卓はこたつ。しかもその上にはイヤホンであったり、結局処分できなかった受験期のお守りであったり、鍋敷きであったり。筆箱に直すのが面倒だった、消しゴムやシャープペンシル。その隣には、計算用紙と数研出版の青いやつ。あとで帳簿につけようと思っていたレシートも放置されている。こんな場所で食べていては、QOLはいつまでも上がらない。

世の中のツイッタラーはみんなこうであると信じていた。我々は、陰の存在であり、生活習慣が終わっていると。しかし、蓋を開けてみればどうだ?むしろ私のような人間の方がマイノリティではないか。大学に行く前から人生に負けてしまっている。なぜTwitterで敗北を体験しなければならないのか…?ただ、1つだけ言いたいことがあるとするならば…


私の味方は、蒙古タンメンや魔剤の空き缶の写真を投稿しているお前らだけだ…!

札幌みたいな単純な町でも迷ってしまうあなたのために

「私、方向音痴なの」その言葉で誤魔化してはいませんか??もしかしたらあなた、方向音痴の域を超えてるかもしれませんよ?きちんと区画整理された町に住んでいて迷うのはやめにしましょう!

私は方向音痴ではありませんので、想像で書きますが、よく道に迷う人というのは地図ばかり見ているのではないのでしょうか?周りの景色を見ることもなく、ただスマホとにらめっこ。そんなことをしていたら目的地にたどり着くのに難儀します。目的地から帰ることができなくなるかもしれません。しっかりと周りを見ましょう。目印を見つけるのです。

この、目印を見つける上で重要なのは、二種類の目印を作っておくことです。それは、「小さいが他の建物にはない特徴があり、その周辺からはすぐに見つけられるもの」と、「大きくてどこからでも見えるもの」の2つです。例を挙げると、前者なら教会やベーカリー、校舎なら山やタワーマンションなどがあります。大きな目印からは現在地の大体の目安がわかりますし、小さな目印からは正確な現在地がわかります。思うに、方向音痴の人は最初から正確な現在地を知ろうとし過ぎなのです。「今は札幌駅があそこに見えるからだいたいこの辺かな、あっちにいけばあの建物が…あった!やっぱりここは〇〇だった」みたいな捉え方が良いのです。

また、方向音痴の人に言い続けてきたことですが、交差点の看板を見てほしいです。交差点名や行き先表示の看板は非常に重要なファクターです。

まず、交差点名。札幌の場合はこれがややこしいのですが、交差点名は実は「交差点の名前」ではなく、「その看板が立っている場所の地名」を表しています。つまり、一つの交差点に4つの名前がつけられてるように感じるのです。例えば、西5丁目通りと北24条通りの交点には「北24西5」だけではなく、「北24西4」「北23西5」「北23西4」の看板も立っている可能性があるのです(ここが京都と違う)。また、札幌は碁盤の目状の区割りなので、行き先表示の看板に書いてある地名を見れば現在地も自ずと絞り込めるようになっています。北大生が覚えておいて損がないのは、「麻生」「伏古」「琴似」「桑園」「札幌駅」などでしょうか。

また、今歩いている通りの名前を確認してください。ある程度大きな通りであれば、その道に愛称がついていることが多いです。その際、気をつけるのは、その通りの名前は、「その通りによって隔てられている2つの地名のうち数字の大きな方を取る」ということです。例えば、北17条と北18条の間にある大通りは北18条通(創成川以西では環状通ですが)だったり、東7丁目と東8丁目の間の通りは東8丁目通だったりします。

最後に、目的地につくまでに曲がる回数を極限まで少なくしてください。特に札幌は碁盤の目なので、多くても3回、ほとんどの場所には2回曲がればたどり着くことができます。曲がる回数を増やすほどあなたの頭はこんがらがります。どうせ大した遠回りにはなりませんから、無理に近道しようとせずに、わかりやすい通りだけを通ってください

この辺ができるようになればきっとあなたも迷わなくなるはずです。それでも迷う人は私の手には負えません、お医者さんに行ってください

昨日よりは真面目な話(なお需要はない)

昨日はふざけたこと書きすぎたので、今日は悩める人々に自分の持論を書きたいと思います

『成功する1番の近道は努力』や『努力は必ず報われる』という考え、結構一般的です。わかりやすくて、それっぽい。簡単に人が釣れます。でもそれ、本当に正しいですか?努力だけでそうなりますか?
私にとって成功とは大学合格だったので以下それについて書きたいと思います。

『努力は成功の1番の近道』という言葉がありますが、これは大学受験においては間違いなく嘘です。努力だけで大学に受かるなら東大受験者は基本的に受かっているはずです、なんせその土俵に立つ人はすべからく努力してきているのですから。でも落ちる人もいます。私にはそれが努力の量で決まっているとは思えません。
次に『努力をしたならば報われる』。一見正しそうにも見えますが、これは対偶とってみれば一瞬でわかります。『報われていないならば努力をしていない』。そんなはずはありませんよね。あなたも一度や二度何かで失敗したことくらいあるでしょう。それらを「努力をしなかった」と簡単に片付けてしまうことができますか?

努力万能論が誤りであることがおわかりいただけたと思います。こんな努力万能論、自分を突き動かすだけなら「勝手にやってろ」、で済みますが、世の中結構他人に押しつける人間がいます。それはもう腹立たしいほどに。なぜ他人にの努力の量の寡多が決められてしまわなくてはならないのか。彼らは我々の何を見てきたのか。そう問い詰めたくもなります。努力をすれば何でもできる、そんなの昭和の、2世代も前の時代遅れの発想です。そんな物を他人に押し付けてありがたがらせようとする人間には反吐がでます。

これまで私は努力は万能ではない、と書きましたが、努力を否定するわけではありません。むしろ、努力は非常に重要だと捉えています。ではなぜ重要なのか?(ここから先は完全な持論となります)

それは努力をしてきた、という自信が持てるようになるからです。自信は自分の能力を最大限発揮させることができると考えています。こと受験においては、試験問題を解くことさえできれば合格できるのですから、努力自体は直接的には殆ど関係ありません。しかし、努力は(自己肯定感の強い状態では)自信をもたらします。乗り越えてきた問題に自信がある人は、何かを憂う必要もなく真っ直ぐに試験に取り組めます。一方、自信がない人間は、解けるのか不安になってかなり迷走します。そして、頭が焦げついて簡単なことも思いつけずにショートしてしまうのです。

このように努力は自信を持たせるという意味で間接的に成功に関与します。しかし、それは決して直接的ではない。失敗を努力の不足のせいにするのは、リレーにおいて第1、第2走者がしっかり走って第3走者がコケたのに、アンカーが第1走者を責めることと同じでナンセンスです。そんなことをしたって意味はない。失敗を努力の不足のせいにして強引に頑張り続けるより、失敗のあと一度冷静になって頭を冷やしたほうがいい。模試などで良くない点数を取ったとき自信を失いがちです。でもそこから努力だけしても自信はついてきません。結局生まれてくるのは焦りだけです。しっかりと自信を持てる地盤を作って、努力をしてみてください。きっと伸びますよ。無闇に努力だけを信じないこと。努力は適切な条件下で初めて実を結ぶびます。その条件を作り出しましょう。

数学赤点の常習犯だった私が如何にして旧帝理系学部に現役合格したか

『私は勉強が大嫌いだ。将来が関わらないのであれば今すぐ逃げ出してしまいたい。でも非力で顔も良くなく、面白くもない私が稼ぐためには学ばねばならぬ。だから私は大学を受けることにした。
しかし私には大問題があった。数学が全くできないのである。なんとかして高校に入学したものの周りとの差は歴然である。高校にいる間に数学が嫌いなものから大嫌いなものに変わっていった。』
こんな受験生、いませんか?いますよね?いなくてもいることにしましょう。だって私はそうでしたから。「こんなやつが理系としてやっていけるんか?」そうお思いになるかもしれません。でもこんな私でもなんとか大学に入ることができたんですよ。どうしたかって?それはね…




アニメをみてました!!!!





おいそこのてめぇブラウザバックすんじゃねぇ!いいですか?私は理論があってこう書いてるんですよ?ちょっとは話を聞いてください。

まず受験に必要なものを挙げましょう。
まずは学力。次に忍耐や集中力。そして最後に運。

すごく当たり前ですね。しかし、驚くかもしれませんが、実はこれらの殆どをアニメで得ることができるのです!ちょっと興味が湧いてきたでしょう?では私が実際に見てきたアニメを挙げながら説明してまいりましょう。

まず学力。世の中、知識を与えてくれるアニメは結構あります。それは日本語の知識だったり、現代社会の知識だったり…このようなアニメの中でも特に素晴らしいものはやはり、「はたらく細胞」でしょう。やはりアニメはストーリーが面白くなくてはなりません。また、キャラの魅力も大事です。この「はたらく細胞」はこれらのアニメの基本をしっかり抑えながら、なんと人間の体内環境について学ぶことができるのです。何という良作!これは見るしかない!!

次に集中力。近頃なら「鬼滅の刃」なのでしょうが、残念ながら私は履修しておりません。機会があれば見てみたいものですが…
その代わりに、「SKET DANCE」をお勧めします。このアニメは見てるだけで集中力を上げるというわけではありません。しかし、非常に重要な事を教えてくれます。それは、集中を高める方法は人それぞれである、ということです。実はこれ、当たり前のように見えて見落としがちなんです。人は自分1人しかやっていないことに不安を持ちます。そして他人に合わせようとする。しかしそれではいけない。この作品の主人公ボッスンは「ゴーグルをかける」といった一風変わった方法で集中力を高めますが、それは我々に「自分自身の方法がある」とと教えてくれてもいるのです。

忍耐はアニメなんかで得られるはずがない、そうお思いではありませんか?しかしそんなアニメがあるのです。しかもそれは見るだけでよい。しかし、この「見るだけ」が非常に重要な作品があります。それは、「異世界はスマートフォンとともに」に代表される、俗に言う『なろう系』のアニメ達です。彼らはみな同じような設定で同じようなストーリー展開をしているため正直言って「つまらない」作品がほとんどです。何度も同じようなこと(しかも大抵しょうもない)を恥ずかしげもなく続ける主人公達にはすぐに飽きがきてしまいます。とてもチャンネルを変えたくなります。でも、我慢してこれを見続ける態度、それが受験で必要な忍耐に繋がってくるのです。
しかしここで注意点が1つあります。いくら『なろう系』といえども、たまに面白い物が紛れ込んでいます。そんな物を見ても時間の無駄です。あなたの忍耐は全く伸びません。面白いと感じた作品は1話ですぐに切りましょう。

最後に運です。きっとこれもアニメで上げられるのですが、運を上げる方法は集中力を上げる方法よりも多様なので、一概にこれとは言えません。
ではどうすればいいのか?実際に自分の運を試し続ければいいのです。
ソシャゲのガチャシステムをご存知でしょうか?知らない方のために説明いたしますと、ゲーム内通貨などを払うことにより、キャラや装備をランダムで得ることができるシステムのことです。当然、レアなキャラや装備は排出率が低めに設定されています。
このガチャを引く前に様々な事をしてみましょう。神社に参拝だったり、ゲーム内で特定のクエストをクリアしたり…そしてレアリティの高い物を手に入れる直前にしたことを記録するのです。それが自分の運気を高める方法、それを受験の直前にすることで、合格に近づくことができるのです。




いかがでしたか?私が合格するためにしたことを参考にしていただければ幸いです。



全く参考にならなかったって?あなたこれを見ているということはTwitter経由でやってきた受験生ですね?こんなもの当てにする前にTwitterを閉じてちゃんと勉強しなさい!他にも受験生ツイッタラーがいるって?あなた以外の受験生ツイッタラーはみんなガチプロですよ?こんなもの必要としてません!やらなくても受かっていきます!